でれでれ草 DereDre Gusa

でれでれなるまゝに、 日ぐらしPCに向かひて、 心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書き付くれば、 あやしうこそ物狂ほしけれ。 ああ@でれでれ

全員別人!すり替わった影武者!

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続・美智子様の真実⑦@カトリックとミッチーズ(後)

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◆拙ブログ内の画像や文(他サイトさんからの転載以外)はフリーです。ご挨拶も、お断りも御無用です。拡散希望です。

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続きです。 

フロジャック神父の活動

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 wikiより

1886年(明治19年)3月31日 誕生
1898年(明治31年)サン・ピエール小神学校に入学
1903年(明治36年)中神学校に入学
1905年(明治38年)1年間兵役に服す
1906年(明治39年)パリ外国宣教会の運営する大神学校に入学
1909年(明治42年)9月26日 司祭に叙階
1909年(明治42年)12月30日 来日
1910年(明治43年)1月19日 宇都宮教会へ赴任
1911年(明治44年)水戸教会へ赴任
1914年(大正3年)8月 浅草教会へ赴任
1918年(大正6年)12月10日 関口教会へ転任
1927年(昭和2年)7月19日 東京市立中野療養所に行き、患者の見舞を開始
1929年(昭和4年)9月 丸山に民家を借り、結核患者を収容
1930年(昭和5年)6月27日 江古田に「ベタニアの家」を開設
1932年(昭和7年)12月 ベタニアの家筋向いに「ナザレトの家」を開設
1933年(昭和8年)10月 清瀬村に「ベトレヘムの園」を開設
1934年(昭和9年)8月月2日 ベトレヘムの園の隣地に「東星学園」を開設
1935年(昭和10年)10月 ベトレヘムの園、診療所の認可を受け重症患者の受入れを開始
1936年(昭和11年)天主公教宣教師社団「ベタニア事業協会」認可
1936年(昭和11年)4月1日 ベトレヘムの園構内に「東星尋常小学校」を開校
1937年(昭和12年)関口教会主任司祭及び東京大司教区司教総代理を辞職
1938年(昭和13年)7月 東星尋常小学校に幼稚園を併設、「聖テレジア寮」を開設
1939年(昭和14年)2月、事業機関誌『るり草』を創刊
1939年(昭和14年)4月 ベタニアの家構内に「聖ヴィンセンシオ寮」を開設
1940年(昭和15年)10月 ベトレヘムの園に紀元二千六百年記念恩賜病棟を建設
1940年(昭和15年)11月 東星尋常小学校に高等科を併設
1942年(昭和17年)9月 三河島に「三河島診療所」を開設
1943年(昭和18年)4月 「ベタニア事業協会」を「慈生会」に変更
1943年(昭和18年)6月10日 江古田に「徳田保育園」を開設
1945年(昭和20年)12月25日 「ベタニア巡回診療班」を組織、上野地下道にて診療活動開始
1946年(昭和21年)4月 浅草教会構内に「浅草診療所」を開設
1946年(昭和21年)7月 那須町の御料地を借り受け、開拓を開始
1947年(昭和22年)那須事業所に診療所を設置
1947年(昭和22年)8月 東星小学校に「東星中学校」を併設
1948年(昭和23年)レジオンドヌール勲章を受章
1949年(昭和24年)10月 坂本に「坂本診療所」を開設
1950年(昭和25年)4月 坂本診療所構内に「上野保育園」を開設
1952年(昭和27年)7月 「社会福祉法人 慈生会」に組織変更
1952年(昭和27年)5月28日 結核死亡率半減記念式典にて表彰される
1952年(昭和27年)9月 那須事業所にアフター・ケア施設が完成
1952年(昭和27年)10月 那須事業所に「八角堂」が完成
1953年(昭和28年)4月 ベトレヘムの園構内に「慈生会準看護学院」を開設
1953年(昭和28年)7月 徳田教会を献堂
1954年(昭和29年)7月 勲五等双光旭日章を受章
1955年(昭和30年)ベタニアの家隣地に「新ベタニアの家」を開設
1956年(昭和31年)6月 ベトレヘムの園構内に「東星女子高等学校」を開校
1956年(昭和31年)10月 那須事業所に「光星学園」を開設
1958年(昭和33年)9月 ベタニアの家隣地に「慈生会病院」を開設
1958年(昭和33年)10月 ベトレヘムの園敷地内に「聖家族の家」を開設
1959年(昭和34年)1月19日 朝日賞を受賞
1959年(昭和34年)9月29日 野塩に「柳瀬寮」を開設
1959年(昭和34年)12月12日 死去、勲四等瑞宝章を受章

 以上

 

開設につぐ開設で、慈善施設を作った方ですね。

こうした活動を後援した人の一人が正田きぬ(正田美智子の祖母)であり、昭和天皇をはじめ皇室だったようです。

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館林と正田家

館林の部落出身だった正田家 

http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-194.html

上原善広というノンフィクション記者が「実話ナックルズ」という雑誌で下記のように指摘したように、部落出身である可能性は高いと思います。

雑誌『実話ナックルズ』にて『JDT 日本の路地を歩く』という連載を執筆しており、2004年7月号に発表した「群馬県T部落」で群馬県の未指定地区を取り上げ、「ここから女性が一人、皇族に嫁いでいる」「ここは女性が皇族へ嫁いだため、行政から同和地区指定されなかった。 指定を受けると部落とわかってしまうからである」「皇族は過去の身分上、最高位にいる。その彼らが過去の身分上最底辺の部落民と結婚するなどということは、身分社会の崩壊を意味している」と書いた。

(以上)

 

 

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さらに、伏見氏が正田家の家系図の嘘っぱちさを検証されています。母不肖の正田富美。江戸時代からの豪商というのは嘘。広告宣伝としての家系図。

※正田家家系再調査

 

正田家をはじめ、犬養家など、部落出身者でカトリックプロテスタントに改宗したケースは多そうですね。

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異教に改宗することで、先祖からの日本社会の底辺にいた苦しくも屈辱の多い歴史から解放されることも多い意のかなと思ったりします。

「神の前には皆、ひとしく平等」といってもらうのも、天皇をトップにした日本の社会階層から自由になれることで救いになるのかもしれません。

キリスト教の信仰に是非をのべるつもりはありませんが、「信仰の自由」が、そのまま、異教徒や異国の侵略の先兵となり破壊活動をする正当化する理由にはならないとおもいます。

 

正田家とフロジャック神父

ttp://blogs.yahoo.co.jp/kawagoe_ekimae_seikotuin/43120328.html 

今は何かと話題の多い皇室の話ですが・・・ 

皆様は美智子妃殿下をご覧になったことはありますか?

私は、川越に天皇ご夫婦が来られた際に、一度だけ見に行ったことがあります。

凄かったです。 あのご夫婦は。

特に美智子妃殿下のオーラといったら・・・

さっきまでわれ先に見んと殺気立っていた女性たちを~ふぁ~ぁと大人しくさせてしまいました。まるで塩をかけたれたナメクジの如く、膝から崩されました。

 

私の故郷は、上州は館林。美智子妃殿下の由来の地です。

日清製粉創業家として知られる皇后美智子の実家の、本家筋であることでも知られる正田家のあるところ。

美智子妃殿下の旧姓は、「正田」になります。地元館林には「正田醤油」というのが名品です。 

美智子妃殿下は、都内にお住まいになっていましたが、戦時中はここ館林に疎開されていました。

そして、カトリック館林教会に熱心に通う方であったのは、祖母の影響が大きかったのだと思います。

私も、正月2日の朝に・・・美智子妃殿下が通われてた「カトリック館林教会」に行ってきました。

2日は、ミサもないので 早朝に外から見てきただけですが。

あ~ ここに通われていたのか?とシミジミと見てきました。もっともこの聖堂が出来たのは1953年なので美智子妃殿下が通われていたのは、その前の聖堂になります。

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(転載以上) 

 

フロジャック神父と宮内庁

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木下道雄侍従長

※「隠された皇室人脈エピソード」より

ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm

 昭和天皇と木下道雄

『隠された皇室人脈』の主役の一人である木下道雄は、東京帝国大学法学部政治学科卒業後、内務省入省、岡山県で地方勤務を体験し、内閣書記官となる。二四(大正十三)年夏、摂政であった東宮殿下(後の昭和天皇)の侍従にと声がかかり、東宮事務官兼東宮侍従に転任、一九二七(昭和二)年に侍従兼皇后宮事務官に就任するが、一九三〇(昭和五)年四月に宮内大臣官房秘書課長に転じ、天皇側近からいったん離れる。以後総務課長、内匠頭、帝室会計審査局局長を歴任する。 

 終戦後、木下が再び昭和天皇の側近として侍従次長兼皇后宮大夫に就任したのは一九四五(昭和二〇)年一〇月二三日。しかし、わずか半年余りが過ぎた翌年五月三日に辞任する。以後、宮内省御用掛を経て、皇居外苑保存協会理事長として皇居前の整備に尽くした。

 木下は昭和天皇が最も信頼していた人物とされるが、皮肉にも昭和天皇の意向を受けて女官制度改革に手をつけたことが、貞明皇后の逆鱗に触れ、辞めざるを得なかったと伝えられている。

 実は、『隠された皇室人脈』の第五章で、靖国神社を「長州の護国神社のような存在」とバッサリ切り捨てた田中清玄を取り上げたが、この清玄が終戦直後の一九四五(昭和二十)年十二月二一日に昭和天皇との拝謁を許されたのは、木下の推薦があったからだ。

(略)

 この木下の昭和天皇への忠誠心は並々ならぬものがあった。一九四六(昭和二一)年一月一日に発せられた「人間宣言」の作成過程で、天皇を現人神としてみる神格化表現が入っていないとして猛烈に怒り、内閣と文書のやりとりまで行っている。木下もまた「七生報国」の心構えだったのだろう。 

 木下道雄は侍従次長を辞めた後、敬虔なカトリック信徒になっていた。洗礼を与えたのはヨゼフ・フロジャック神父である。

 

 財団法人慈生会の設立者として知られるフランス人神父のフロジャック神父は、一九〇九(明治四二)年に来日、戦前から乳児院結核療養施設、診療所などを建てて社会事業に貢献していた。日本語巧みで胸まで伸びた真っ白いヒゲが特徴だった。

 木下は、幼友達の妹がフロジャック神父の下で働いていた関係で、噂だけは聞いていた。村から村へと布教の旅を続ける神父が、足に大きな裂傷を負った際、近くの農家から針と糸を借りて、自分で縫い合わせたという話を聞いて、「フランス人にも、こんな弁慶のような荒法師がいるのかと、一種の親しみを感じた」と語っている。この親しみとともに、フロジャック神父の名前が木下の記憶に刻まれた。

 宮内省総務課長時代、陛下からの推奨金推薦先として財団法人慈生会の前身にあたる「ベタニアの家」の名前があがり、木下の記憶によれば、三二(昭和七)年の暮れに弁慶の元を訪ねる。ここで二人は初めて出会い、事業も評価され、フロジャック神父には推奨金五千円が与えられることになる。

 本格的に二人がかかわり出すのは、侍従次長時代の四五(昭和二十)年十一月二五日、この日の夜にフロジャック神父は木下宅を訪れ、戦災の傷跡残る上野駅周辺の浮浪者救済のための診療施設開設と関東に酪農を主体とするトラピスト施設の必要性を説いた。木下の日記にも「共に予の共鳴する所なり。考慮を約す」とある。

 木下は早速その翌日の宮内省事務調査会でフロジャック提案を披露して、宮内省の協力を取り付けた。
 しかも、那須の名前は早くも十一月二九日に登場し、木下退官直後の四六(昭和二一)年七月には木下の斡旋で那須御料地約三百町歩が貸し下げられることが決まる。


 フロジャック神父は貸し下げられた川西御料地六〇町歩を「聖ヨゼフの山」、奥まった道上下の御料地を「聖マリアの山」と名づけて、早速開墾が開始され、引揚者、復員兵の受け入れを始める。この地には那須診療所、林間学校宿舎、精神薄弱児のための光星学園(現マ・メゾン光星)などが次々とつくられていく。

 この御料地貸し下げの背景を見ておこう。

木下によれば、フロジャック提案を昭和天皇に話したところ、昭和天皇より「助けてあげなさい」と言われ、それがきっかけで林野庁との話し合いもつき、貸し下げることになり、成績によってはこれを払い下げることまで決まったとしている。

 

入江相政侍従長

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※「隠された皇室人脈エピソード」より

ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm

 興味深いのは一九三四(昭和九)年に侍従となり、侍従次長、侍従長として半世紀余にわたって側近を務め、宮中生活最後の休日に急死した入江相政もフロジャック神父と交流していた。この入江もクリスチャンだったとする説もあるが、現時点では事実かどうか確認できていない。
入江相政日記』(朝日文庫)にヨゼフ神父として登場するのは、四六(昭和二一)年三月十九日この時入江はフロジャック神父と会食している。

 

フロジャック神父と昭和天皇

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※「隠された皇室人脈エピソード」より

ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm

木下と入江の口利きもあっただろうが、昭和天皇も積極的に支援したことは間違いない。

これを順に追っていこう。 

フロジャック神父は四六(昭和二一)年十二月十九日に天皇皇后両陛下に進講する。カトリック宣教師が単独で拝謁したのはこの時初めてと言われている。この時、入江日記にはフロジャック神父が「大変色々申上げて面白かつた」とある。

 四七(昭和二二)年九月二日に木下道雄が拝謁しているが、おそらくこの直後に行われる両陛下の那須巡行の件でお願いでもしたのだろう。

 五日後の九月七日、入江日記には「夕狩の慈生会に行く。フロージヤアク老が大変な元気で何かと案内してくれる。例によつて愉快といつたらない。」と書かれている。

 

翌九月八日にも両陛下は慈生会を訪れている。

フロジャック神父は、進駐軍やフランス大使館員や大工を一人ずつ引き合わせた後、「私は日本人以上の愛国心を持つて居ります。一生懸命に致しまして必ず立派な国に再建致します、云々」と語る。入江はこの時の様子を「フランス人らしい上品なユーモアの連続で非常にお楽しませした」と書き記した。

 四八(昭和二三)年もフロジャック神父は二度にわたって両陛下に拝謁し、この年には高松宮三笠宮も慈生会施設の視察を行っている。

つまり、皇室あげてフロジャックの事業を後押ししていたのである。

 

フロジャック神父と館林

※「隠された皇室人脈エピソード」より

ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm

弁慶神父「会心の傑作」とは

 皇太子の結婚の儀が行われたのは五九(昭和三四)年四月十日、その年の十二月十二日、フロジャック神父は帰天。

「わたしは貧しいひとびとの友であった。わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。思召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」との遺言を残した。

フロジャック神父には勲四等瑞宝章が贈られ、昭和天皇より祭資料を賜る。 

 この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。その中には、軽井沢のテニスコート天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。

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フロジャック神父と正田きぬ

※「隠された皇室人脈エピソード」より

ttp://www.yorozubp.com/0806/080621.htm

そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。

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フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。

美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね

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神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。

 

皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と期待との熱きものがあったのではないかと思います。

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「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。

 フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。

文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。

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 一九二七(昭和二)年、東京関口教会美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。

このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。

また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也文藝春秋他参照)。 

弁慶が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。

(以上) 

 

不思議なことに、wikiでは正田家や館林、宮内庁カトリック職員、美智子との関係やエピソードなどの記載がありません。なんでだろう~~♪

 

昭和22年雙葉小学校卒業

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 左、中はテンプルちゃんと呼ばれた正田美智子。右は雙葉小学校を卒業した正田美智子。 

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フロジャック神父はカトリック神父として、当然、信徒である正田家の人たちの懺悔もきいていたでしょう。正田美智子がすり替わったことを知らないはずないと思うのね。

というか、この人は純粋な神父であると同時に、純粋なバチカンの先兵であり、純粋な日本侵略の工作員であり、GHQと宮中のカトリック教徒と組んで皇太子妃に美智子をねじ込んだ主犯の一人のはず。

 

日本でのフロジャック神父の慈善活動の熱意と実績には疑いを持たないけど、いろいろ知ったことが多くなった今、

「美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね」

 

カトリックの日本侵略の第一段階を成し遂げた勝鬨に聞こえるわ。

テリトリー 

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