でれでれ草 DereDre Gusa

でれでれなるまゝに、 日ぐらしPCに向かひて、 心にうつりゆくよしなしごとを そこはかとなく書き付くれば、 あやしうこそ物狂ほしけれ。 ああ@でれでれ

全員別人!すり替わった影武者!

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続・白洲次郎の実父②@白洲文平、退蔵、白洲次郎の父と祖父

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白洲文平と次郎

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普通に似てますね。お父さんも混血っぽいです。

白洲次郎の父・白洲文平

https://www.city.taketa.oita.jp/photo_news/?id=566

 建築道楽であった白洲文平の建てた赤い瓦屋根の洋館は現存していませんが、文平と親交があり、後に家屋を譲り受けた向井家の現主人、雄二郎さん宅で、残された当時の貴重な写真や資料を見せていただきながら、エピソードを伺いました。

 雄二郎さんは「当時の建物で洋館は珍しかった。大きな窓や、部屋には暖炉がありました。また、浄化設備を備えていました。」と話してくれました。

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 鼻が高かったことから〝鼻高さん〟と愛称で呼ばれていたという。

福岡で当時の荻村議と出会い、狩猟 が存分にできると聞いて移住を決めたとも云われています。 

(ここまで)

 

白洲次郎の祖父・退蔵

アジア系の顔ですね。

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http://caramel24c.exblog.jp/25989285/
白洲次郎の祖父は白洲退蔵で1883年に横浜正金銀行(為替銀行)の頭取だったこともある名家だった自分の屋敷の一部を提供し神戸女学院の創設にも寄与した人物だった

白洲文平はハーバードやボン大学にも留学し三井銀行からカネボウに勤めた後独立し綿子貿易で財を成したらしい

そんな恵まれた環境の中で育ったボンボン白洲次郎は神戸の学校を終えると、イギリス、ケンブリッジのクレア・カレッジジに留学する

(以上)

 

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横浜正金銀行 wikiより抜粋

株式会社横浜正金銀行

(英称:Yokohama Specie Bank, Ltd.)

かつて存在した日本の特殊銀行

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1880年(明治13年)に開設

国立銀行条例準拠の銀行。

外国為替システムが未確立だった当時、日本の不利益を軽減するよう現金(正金)で貿易決済を行なうことを主な業務としていた。

・その名の通り神奈川県横浜市中区に本店を置いた。

東京銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の前身とされる。
・貿易金融・外国為替に特化した銀行。

明治維新後急速に成長し、やがて列強の仲間に加わっていく日本を国際金融面で支え、HSBC香港上海銀行、チャータード・マーカンタイル銀行と並ぶ外国為替銀行へと発展した。

・また、関東大震災と昭和恐慌で大きな打撃を受けながら、緊縮政策を前提とする金解禁に加担。
第二次世界大戦

・日本の軍需に必要な外国通貨収集の為の機関とみなされた 

敗戦後

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1946年(昭和21年)にGHQの指令によって解体・清算。

外国為替銀行としての役割は新たに設立された東京銀行に引き継がれる事になった。

・それでも、頭取職は日銀総裁への登竜門であった。

・設立に当っては、1円銀貨の導入を支援するなど当時の日本の海外貿易・外国為替に大きな影響力を持っていたHSBCを模範とし、HSBC横浜正金銀行に協力を惜しまなかった。

・運営に際しては小泉信吉をはじめとする慶應義塾門下生が多く関わった。

 

 

沿革

1879年(明治12年)

 国立銀行条例により設立。
1880年(明治13年)

英国の香港上海銀行が洋銀券を撒いている時分に営業開始。
「本邦人の手で、正銀取引の一大銀行を設立し、正銀の供給運転に便し、務めて内外商人の間に介在して金融の円滑を図り、夫の外国銀行の向ふを張って大に彼らに制肘を加へ、漸次我商権を回復しなければならん。」
— 『横浜正金銀行史』 西田書店 1920,1976年 pp.5-6.


1883年(明治15年)

 初期の経営混乱を収拾するため、政府より原六郎が頭取として送り込まれる。


1887年(明治20年)4月 

資本金を600万円に増資。


1887年(明治20年)7月6日 

横浜正金銀行条例公布。「内外国において貿易上要用なる地に支店又は出張所を設置し、また他の銀行と『コルレスポンデンス』を締約することができる」旨が規定された。同条例は同年に改正され「大蔵大臣は横浜正金銀行諸般の事務を管理官を派遣して監視する」旨が規定された。


1889年(明治22年)

横浜正金銀行条例の改正。「条例定款に背戻する所為あるとき、または危険なる所為と認められる事件があるときは、大蔵大臣はこれを制止し、又は取締役の改選を命ずることができる」旨等が規定。


1906年(明治39年)

関東州(=遼東半島。当時日本租借地)・中国における銀行券発行を許可される。


1906年(明治39年)

7月20日 - 日本初の専用線電話が日本銀行横浜正金銀行本店間で開通。


1932年(昭和7年) 

本店機能を東京に移す。


1938年(昭和13年)5月

HSBC=香港上海銀行を傘下に収め、中国における徴税権を得る


1941年(昭和16年)12月23日

敵産管理法により、

・ニューヨーク・ナショナル・シティー銀行、

香港上海銀行

・チャータード銀行、

・オランダ系銀行2行

の以上5行について、政府が横浜正金銀行に財産管理を命ずる。


1946年(昭和21年)

閉鎖機関に指定される。株式会社東京銀行を設立し、同行に業務を引き継いで解散


1957年(昭和32年

 旧仏領インドシナを占領中の日本軍がその軍費を調達するため、日仏政府間および旧正金銀行・インドシナ銀行間でそれぞれ協定を締結していたが、二協定による終戦時の日本側債務残高とフランス側特別円勘定を最終的に解決すべく、両国政府間で議定書を作り清算した。後に国会で問題化するが、特別円勘定についてあたかも円建てであったかのような言及がなされている点について、実際はスターリング・ポンドで支払われた。
1963年(昭和38年)

清算結了。保有不動産をもって日本中央地所株式会社設立。

設立に当っては、1円銀貨の導入を支援するなど当時の日本の海外貿易・外国為替に大きな影響力を持っていたHSBCを模範とし、HSBC横浜正金銀行に協力を惜しまなかった。

運営に際しては小泉信吉をはじめとする慶應義塾門下生が多く関わった。

 

歴代頭取
初代 (1879年12月~1882年7月)中村道太
2代目 (1882年7月~1883年1月) 小野光景
3代目 (1883年1月~1883年3月) 白州退蔵
4代目 (1883年3月~1890年3月) 原六郎
5代目 (1890年3月~1897年4月) 園田孝吉
6代目 (1897年3月~1906年3月) 相馬永胤
7代目 (1906年3月~1911年6月) 高橋是清
8代目 (1911年3月~1913年2月) 三島弥太郎
9代目 (1913年2月28日~1913年9月13日) 水町袈裟六
10代目(1913年9月~1919年3月) 井上準之助
11代目(1919年3月~1922年3月) 梶原仲治
12代目(1922年3月~1936年9月) 児玉謙次

13代目(1936年9月~1943年3月) 大久保利賢
14代目(1943年3月~1945年6月) 柏木秀茂
15代目(1945年6月~1946年7月) 荒川昌二
16代目(1946年6月~1946年12月)高田逸喜

(以上)

 

コメント欄より

Hiromiさま、貴重な考察をありがとうございます。 横浜正金銀行ですか。 白州父さんより数十年後ですが、12代目頭取の児玉謙次が児玉誉士夫の児玉機関の人で(上海に行ってた人です) 冨美と正田家の仲人をした人です。 このあたりの人脈は密に繋がっているのですね。 肌寒くなってきます。 猫に癒されます。

(以上) 

ザックリまとめると、、

HSBCの協力をうけて、横浜正金銀行をつくった

白洲次郎の祖父が、頭取をつとめた

大日本帝国が巨大化するにしたがって、本家のHSBCを飲み込んだ。

・が、敗戦になって閉鎖機関に認定され、清算し解体し、東京銀行となった。

・今の東京三菱UFJとなった。

でしょうか。

 

HSBC

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もう一回まとめてみます

1842年・アヘン戦争

・中国が敗北香港をイギリスの植民地とする敗戦条約に署名をしなければならなくなり、同時に上海などいくつかの港を開き、イギリス領事館を置くことに同意。

アヘン戦争から得た莫大な富を取り扱う銀行が必要になり、できた会社がHSBC 

 

1861年・グラバー商会設立

ジャーディン・マセソン商会の代理店。長崎に設立。

トーマス・グラバーフリーメーソンのメンバー。長崎に設立。志たちを援助。

・倒産後は三菱の岩崎弥太郎の顧問となり仕える。 

 

1864年、太平天国が滅亡

・メーソン・ロッジが上海に林立。

・ロンドンで植民地協会が設立。

・4年後、同協会は、英国王室の後ろ盾によって、王立直轄植民地協会と改名。

・この王立直轄植民地協会によって創立された金融機関が、HSBC香港上海銀行

 

1865年・亀山社中設立

ジャーディン・マセソン商会は、アメリカ南北戦争が終わり売れ残った武器を上海で取扱い、維新軍に「グラバー商会」を通じて、銃や軍艦なども輸出。

・その取引のダミー商社が坂本龍馬が長崎に設立したのが亀山社中」。  
・「亀山社中」は、後に「海援隊」と改称。

・竜馬の死後、利権を受け継いだのが岩崎弥太郎

・破産した後、グラバーは岩崎家に仕える。

・岩崎は海援隊の事業を引き継ぎ、三菱財閥を創った。 

三菱さんのうまい汁の吸い方が、半端ないですね。

 

1868年・英国最大の銀行HSBC香港上海銀行)設立

・アヘン貿易で得たお金で創立された銀行。

・最大の株主はアヘン王・デヴィッドの5男のアーサー・サッスーン。 

HSBC出資者

・デビッド・E・サッスーン商会、

・エヴリン・ベアリングベアリング商会、

・ディン・マセソン商会、

バークレイズ銀行ロスチャイルド人脈の役員によって構成)、

全員が高位フリーメーソンのメンバー。

 

東インド会社の蛮行が世界の非難を浴び、正式に東インド会社は消滅。

HSBC香港上海銀行)へ改名、

・サッスーン財閥、

ロスチャイルド財閥、

ジャーディン・マセソン商会

などが引き継いだ。

 

吉田茂の養父がジャーディン・マセソン協会の日本支店長。

今の価値で56億円の資産を、養子の茂に残した。バリバリの工作員

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wiki 吉田 健三(よしだ けんぞう、嘉永2年(1849年) - 明治22年(1889年))は、日本の江戸時代後期の武士(福井藩士)、明治期の実業家。
昭和期の内閣総理大臣吉田茂は養子、英文学者・吉田健一は養孫に当たる。

享年40歳。

30代で56億を残せる財産を作った人。もちろんグローバルな人だから、スイスなどに隠し財産は別に隠してあると思われ。何やってたんでしょうね。

 

さて、はなしを白洲家に戻しますが、、、

※画像はこちらからf:id:e-vis:20170508211825p:plain

この次郎さん(ですよね?)、もろ外人なんですけど(笑)

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オノヨーコさんとジョン・レノンさんの息子さんのショーンさんもそうですが、白人と有色人種の混血児は、成長するにしたがって、有色人種のほうの親ににてきますね。

 

「鼻高さん」文平さんでしょうか。次郎は文平さんにも似てなくもないですね。

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案外、次郎の父の「鼻高さん」の文平さんって、混血児なのかも??

 

※「白洲次郎はジークムントの子」説

23338、白州次郎は白州家の養子、ウオーバーグのエージェント説は確か? - THINKING LIVE シンキングライブ

(※文平)は白洲商会というのがあって、親爺は繊維問屋をやってて、繊維不況の中で倒産します。小さな会社です。親爺は倒産してどうしたかというと、九州の山の中に掘っ立て小屋を建てて、借金取りから逃れて、そこで一生を終わる男です。ちょうど白洲次郎ケンブリッジ大学に行ってるんですね。倒産します。

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白洲次郎はどうしたか。白洲次郎は当時のイギリスのクラッシック・カーを乗り回して盛んに遊びます。なぜそんなことが出来るのか?

白洲次郎を助けた男にジグムント・ウオーバーグというのがいます。

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※この人でしょうか。1835年生まれ。 

その男が生涯にわたって金もなくなった男に巨大な金を与えてケンブリッジに行かせて、その後も一生大事に育てるわけです。おかしいと思いませんかこれ。

僕はねどうもこの男(白洲次郎)は日本人じゃないんじゃないか、ウオーバーグの子どもじゃないかという考えをずっと持っておりました。

で、ちょっと前に『1945年占領史』という本が出まして、その本を読みました。徳本栄一郎という人が書いた本で、その中にですね、妙なことを書いてました、

結局、彼はホワイトクラブというのがあるんですが、最高権力者、チャーチルとかロスチャイルドとかMI6の長官とかトップクラスの者が入る、イギリスの最高の貴族クラスが入るクラブの会員であったと。(注 会員ではないが出入りしていた)

貧乏人の男で親父が掘っ立て小屋に住んでるのに、どうして彼はできるんだろうと。

 (以上)

 

 白洲 文平 wikiより

1869年(明治2年) - 1935年(昭和10年)10月23日)は日本の実業家である。

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もしかりに、ジークムントの庶子が次郎ではなく、文平なら35歳の時の子供になりますね。 想像の範疇をこえるものではないのですが。 

 

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左は、ジークムントのお孫さんです。白洲次郎と同年です。

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同族でしょうか。

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謎の多い白洲家でした。

 

しかしながら、疑惑通りなら、幕末や開国となってから工作員が用意されていたのではなく、江戸時代に入り日本が鎖国した後から占領計画はスタートしていた可能性もありますね。明治維新は日本占領の始まりではなく仕上げだったのかも。

江戸時代のあいだ、外国勢力が将来的に日本を内部から「改革、革命、改宗」させるために、アジア系社員や混血児などを長崎などから侵入させ、下層階級に背乗りさせながら様子を見ていた可能性があるのかも。

 

それだと、維新を牽引した「志士」たちの、幕末に見せた非日本的な考え方や性格、公というものを理解してない中韓人のような行動、維新後の東京の支配層に見られる、本来の日本人とは違う、日本と日本国民に対しては「派遣されて駐屯している植民地提督とそのチーム」という感じの目線、「公共心の欠けた、公私のけじめがなくたかり続ける最下層民の性根のまま権力を得たかのような性質」が理解できるような気もします。

 

コミュニケーション

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